講座の呼称について、
ブレイン・アップデート・コンプリートプロジェクトは、
第1期、第2期と、治療院マーケティング研究所とのタイアップで開催しました。
第3期は、国際ブレイン・アップデート協会独自で開催し、
第4期は、再び治療院マーケティング研究所とのタイアップとなりました。
従って、治療院マーケティング研究所としては、第3期とご案内しましたが、
通し番号としては、第4期となりますので、今後は第4期とさせて頂きます。
また、第2期までは「ブレイン・アップデート・コンプリートプロジェクト」と呼んでいましたが、第3期で内容がリニューアルされ、シンプルかつ本質的な内容にリニューアルされたこともあり、ブレイン・アップデート・ネクストステージという呼称となりました。
また6ヶ月コースを、第4期からは、前半3ヶ月を「ネクストステージ1」後半3ヶ月を「ネクストステージ2」と呼ぶことにしますので、ご了承ください。
効果的なゴール設定 |
スタートとゴールは繋がっています。
「問題にフォーカスし、問題を無くす事をゴールにスタートする」のと
「課題(ギフト)にフォーカスし、愛と感謝の感覚を広げていく事をゴールにスタートする」のでは、結果が全く違って来ます。
https://www.youtube.com/watch?v=0XJD7RSQrjA
*42:51〜は、新しい内容が収録されてますので、4/23(日)にご参加された方もご覧下さい。
【必見】
言い訳を止めると(過激派と小心者) |
【スリーインワン・コンセプツ 「言い訳を止めると ワークショップ」
テキストから抜粋】
「イヤです。」と本当に言いたいのに、「イヤです」と言ってしまうと、どうして罪の意識を感じるのでしょう?
本当に同意していないのに、どうして「はい」と言ってしまうのでしょう?
どんな言い訳をしても、結局その代価は支払わなければならないのに、どうして自分の選択に対して言い訳をしなければならないと感じるのでしょう?
「言い訳(excuse)」という言葉は、ラテン語の“excusare”から来ています。
これは「〜に弁解する」「〜に対する非難を免れようとする」「〜の正当化に役立つ」「正当化する」という意味です。
相手が同意しないことをしたことに対して「非難されないようにする」あるいは「正当化する」時には、いつでも責任を否定しているのです。「そんな事はしていません。」あるいは、「結果がこうなると気がついていたら、そんな事はしなかったのですが…。」
さて友よ、自分の振る舞いに言い訳をするのは、自分の責任という事になると、ひょうたんの様に中が空っぽな人間だけなのです。自分の間違いを認める事と、最善の選択肢が「状況を改善するには、今何をする事が出来るだろうか?」というものである時に、その間違いの言い訳したり、正当化するのとは全然違う事なのです。
言い訳は、非生産的で時間の無駄なのです。
こう言った方がいいのです。
「そうです。おかしくしてしまいました。そして、うまく行かなかったことに対しては、自分の責任を認めます。あなたが傷ついたのは分かっています。その事については、心からお詫びします」
この様な言葉の方が関係している人達から見れば、ずっと満足のいくものです。
それに「この事については、自分でも辛い思いをしています。物事をキチンとする為に出来る事は進んでやるつもりです。今何をしたらいいか言って下さい!」と付け加えるならば、確実にずっと建設的になるのです。
こう言った言葉は、雰囲気を爽やかにします。更に、あなたの正直で責任感ある態度が、あなたの権威にもなるのです。藪を叩き回ったり、言い訳をして断ったり、誘惑したり、降参したり、ボスになったり、家来になったり、そんな事は一切無しで、私たちは対等になるのです。
対等の者の間では、言い訳は必要ありません。こうなれば、いつもの仕事と同じで、「さあ、始めましょう!」となるのです。
「言い訳をする」と言うことは、「対等でない」と言う事です。
怒りと自己不信と、痛みと罰を受ける事の恐怖によって、普通は偽善的に相手の足元に這いつくばると言う屈辱的な演技を伴うのです。
言い訳は、「権威に対して、どれほどまずい事をしても、受け入れてもらえるだろか」と言う臆病者のテストでもあるのです。
この様な、人を操る様な振る舞いは、決して利益にはなりません。それから後は、その関係に腐ったトーンを付け加えてしまいます。
責任ある振る舞いとは、自分自身の選択と、その選択から生まれる同意を、それを変える事を選ばない限りは、尊重すると言う事です。
責任ある振る舞いとは、自分にとって大切な人々との間で、ハッキリとした意志の疎通をとり続け、起こって欲しくない事ではなく起こって欲しい事について話をする事なのです。
この事は、権威者としてのあなたを誘惑して同意させたり、あるいは、あなたに服従したりする誰の企てにも我慢しないと言う事です。
私たち一人一人には、たった一人しか権威者はいないのです。そして、それは自分の自分に対する権威なのです。
責任ある振る舞いとは、 「言い訳なし!」の人生を生きると言う事です。 |
これは、生きるに値する人生だと言う感じがしませんか?
それでは、どうして私達は皆、正直な責任という事において、これほどズレてしまったのでしょうか?
簡単です。男性と女性という役割の中で育っていく過程で、社会によって押し付けられた「恐怖」と「深い悲しみ」そして「罪悪感」のせいなのです。
さて、ブレイン・アップデートの技術を使って、「言い訳を止めると」の問題を特定し、これを解放する事で、「私達皆んなが、楽しく、生産的な対等の者として生きていく事ができる世界」を生み出す事に繋がります。
その為にも、権威を人に明け渡し、他人との比較競争するのではなく、人生における唯一の権威者として、個人としての責任を取る事で、自分とも他人とも世界とも、もっと調和できる人生を送る事が出来るのです。
受講生・アシスタントとしての3ヶ月間は、人類が今までなかなか成し遂げられなかった、この様な世界を実現する為の大実験とも言える貴重なトレーニングだと言えます。
特に、世界中がプランデミック(あらかじめプラン立てられたパンデミック)で権威をメディアや同調圧力に明け渡している今だからこそ、内なる権威を取り戻すか否かで、大きくふるい分けされている時代だと言えます。
ちょうど、コロナウイルスが騒がれた2020年の2月に治療院マーケティング研究所さんとのタイアップが始まり、DVD出版、第1期BUCP65名、そして第1期の4倍近くの第2期生が集まってきています。
私も31年間キネシオロジーに関わってきましたが、コロナが始まったタイミングで、ここまでの大きなムーブメントが起きてきたのには、大きなお役目があるからこそだと感じています。
アシスタントに入る方にも、「自分自身も、その大きなお役目の一端を担うポジションが回ってきている」という自覚と誇りを持って関わって頂きたいと思っています。
自分自身を疑う時
内側で自分を疑うと、外の権威者の同意に頼ることになります。内側には、ほとんど自信が持てないからです。そして、このように外側の権威に頼ると、思い切って出来る事が少なくなります。
その権威者達を喜ばせる必要があり、こちらが従順であることで、受け入れてもらえるのです。独立しているところを見せても役に立ちません。そんな事をしたら、自分自身の権威を明け渡すことで手に入れていた脆弱な安全が脅かされてしまいます。「馴染みの悪魔の方が見知らぬ悪魔よりましだ」という訳です。
これは、これは「完璧な人間菌」です。そして、これは男にも女にも感染するのです。加えて、これは二つの形でやってきます。つまり、「隠された敵意」と「大っぴらな敵意」です。
このバイ菌は、社会の中で、「小心者」と「過激派」とを創り出します。しかし、もし信じ込みの体系が、自分自身の責任を回避する事に基づいているならば、「小心者」も「過激派」も、自分たちが狙っているものを手に入れる事はできません。どちらにしても勝ち目なしの戦いなのです。
小心者(喜んでなる犠牲者)の在り方
「小心者」は、自分の為にならなくても協調します。そして、決して勝つ事は出来ないのです。
出来てせいぜい既得権益の維持くらいなものです。この人たちは黙って(恨み)苦しむように見えます。
そして、皆んなの前では、自分のことは二の次にして、「皆んなの為の最善」を前面に押し出すのです。
そして周りの人が認めてくれるのを待って、うろうろします。自分が与えたと感じているのと同じ見返りが欲しいのです。この過程で、彼らはシステムに対して服従したがり、その結果 自己卑下するしかないのです。
そして、目に余るほど粗末に扱われても耐えるのです。というのも、心の底で、人に期待されている者ではなく、自分の望みの姿になり、望みのことをし、そして望みのものを持つ事が出来ないでいる事に深く深く、罪の意識を抱いているからです。
しかしながら、この人達の敵意は、軽くオブラートに包まれた皮肉に現れます。あるいは、「お前達より偉いんだ!」という態度や、注意深くチェックされた仕返し、それに自分がコントロールできるわずかな人々に、「その人達が最も望んでいるものを与えない」という形で現れます。
小心者の敵意は、家族に向けられるものです。これは内化された「ドアの向こう側」のポジションです。外面を保つ事が大切なのです。自分のありのまま(それがどんなモノでも!)で見て欲しいと狂おしく願いながらも、受け入れてもらう為にルールに従って振る舞うのです。
小心者の一番の言い訳は、「誰の気持ちも傷つけたくないのです!」という明らかな真実の否定です。
それで、心を開いて、直接的で正直になる事が出来ないと感じるのです。こうして普通は流されない涙と共に怒りを飲み込み、ニッコリ笑います。この人たちの人生は、ガンを引き起こすような抑圧に満ちているものです。
この人達は、自分の内側の真実を表現する代わりに、忍苦で置き換えます。そして、「周りの中で一番苦しんでいる人間は自分なんだ!」と、更に言い訳するのです。この事により、表面上は、この人達は「完璧な人間」に見えます。「もう一方の頬を出す」完璧なお手本です。
しかし、悲しいかな「忍苦」は、この苦しみがちょっとやそっとでは終わらないものになるように自分で予言して自分を満たしてしまう事になるのです。
結局のところ、「誰の気持ちも傷つけたくないのです!」の中にある真実は、「人にも自分の気持ちを傷つけて欲しくない」か「今の苦しみにしがみついている方が、もっと酷い事になるよりはまし…」なのです。
自分自身の気持ちを考えている方が容易いのです。
二つの地点を結ぶのには、直接的で正直な意思の伝達(正直なコミュニケーション)が最短距離なのです。
初めは、苦しみを更に強烈にするかもしれませんが、一次的な強烈さが払拭されると、関係は、「深い悲しみと罪の意識」から「対等の力」へと移って行くのです。
これこそが、もちろん小心さへの答えなのです。しかし、人生を自分から屈服し、苦い明け渡しに費やしてきた人間にとっては、直接的ないしの疎通と言う考え方自体が我慢する事さえ難しいのです。
そんなことをするより、「完璧」な小心者は、自分の真実を包み隠さず語る者に対しては、強固に反対します。言われた事の内容によると言うよりも、その人が敢えてそれを言った事に反対するのです。
彼らはまた、過激な振る舞いが、その醜い頭を持ち上げるや否や、出来る限りのことをして阻止しようとします。
というのも、そんなことを許したら、自分の心の奥底にほんの少し隠れるように残っていた権威が脅かされるからです。
要点です。小心者は全てを内化して、心のそこで秤に掛けます。
そして自分が満たされていないことを感じるのです。というのも、手に入れようとあがいている内側のバランスも「完璧さ」も決して手に入れることは出来ないからです。外の世界で本当は求めているものに向かって思い切って賭けてみる事が出来ない言い訳として、罪の意識と恥と非難を背負うのです。
心の中では、犠牲者の地位に暗黙の内に含まれている自分の良き仕事と、自己抑圧、それに忍苦に対して尊敬を求めているのです。
過激な人達の「破壊的な」在り方
過激な在り方は、敵意を外化します。過激な人たちは次のような言い訳を使って、抑圧を直接に攻撃します。
「あいつらは、私達のことなんか、屁とも思っていないんだ!
あいつらは、私達を搾取している! その上、こちらは何を手に入れたっていうんだ!
利用され、虐待され、混乱するばかりだ! 自分達の為に立ち上がれ!
糞ったれ共をたたきのめせ! 体制を叩き打つせ! 新しく始めるんだ! 今度は正しくやるんだ!」
自分の気に入らないことに対して戦うことは、本当に欲しいものに向けて進む事に関しては、半分の力しか持っていません。過激な人達は、「それこそが自分たちが欲しいものに向かってやっている事だ!」と言うでしょう!
しかし、彼らは「自分たちの邪魔をするものを破壊すること」に気持ちを向け過ぎて、生きるに値する生活の手本を打ち立てる暇がないのです。(いつ本当に魅力的な過激な人間に出会った事があるでしょうか?態度や姿、スタイル、何にしても、本当にその人の最も美しく「最高」の姿を表していた人がいたでしょうか?
ロマン派か、変人か、そんな人はいたかも知れません。でも美しい人はいなかったのです!)
外の世界で間違っている事に焦点を合わせる事は、ここ内側で間違っている事を決して直そうとしない事の最高の言い訳になるのです。人の事を非難している限りは、自分自身に働きかける必要はないのです。
過激な人達は敗退します。というのも、「抵抗しているものに人はなって行く」ものだからです。そして、そのようなものを規制のシステムに食い込ませようと、それは一時的なものに過ぎません。というのも、システムの誘惑的な安全さは、結局はこの人達を飲み込んでしまい、今自分達を妨害していると考えている正にその小心者にしてしまうからです。
もし、あなたが過激な人に「あなた達は、単に徒党を組む動物(仲間の過激派たちに受け入れてもらって初めて自分たちのよって立つ足場ができる生き物に過ぎない」と言ったとしたら、「ふん!」とせせら笑うでしょう!
しかし、仲間達に受け入れてもらって、グループのサポートがあり、その付き合いがなければ、アナーキーな社会的病理にすぎません。そして、社会や国家に対してよりも、家族にとっての問題となるのです。
過激な人達は、外での同意に気持ちを向けるので、「小心者が尊敬を必要」としているのと同じく、「聴衆を必要」としています。そして、同じくらいに「仲間の是認と受容を必要」としているのです。
グループに受け入れられると、彼らは益々過激になります。
(これがネット上で炎上騒ぎ起きるメカニズムです! 大抵の問題は、当事者同士で、本音でトコトン話し合えば解決するものです。しかし、ネット上で、自分の仲間や聴衆を意識する事で、相手の話よりも、自分の立場の方が大切になり、お互いに引くに引けなくなり、どこまで行っても平行線で炎上するのです)
しかし、これは社会を変える事に向けられているのでしょうか? あるいは、心の底では、これまで得る事のなかった受容を手に入れることにのみ向けられているのでしょうか?
大抵の人は愚かにも、「その場で受け入れる事が敬意である」と信じています。
そうではありません。普通は、受け入れる事は、A地点からB地点に行く為に必要な時間だけ持続するものなのです。
これによって困難な状況に入っていき、また出てくるのがスムーズに出来るのです。
敬意は時間を超えて存在します。人が心から敬意を払う時、何かが豊かになった経験からくる、花開くように生まれる感謝の表現となるのです。
グループは、人生を豊かにする事に関しては、ほとんど意味がありません。
グループとは、結局個人が集まったものなのです。その場のサポート(正当化)以上には、移り気な代物です。
今日はこのグル、明日はあのグル、というわけです。
誰であれ、個人としての責任を回避させてくれる一番の言い訳を与えてくれる者に注意を注ぐのです。
煎じるところ、「ドクターショッピング」が大盛況なのです。(あなたの質問と疑いに答えを持っているドクターは、あなた自身しかいないのだ…と納得するまでは)
グループの行動に焦点を当てているので、過激な人達は、グループ自体の中での活動を取り締まる羽目に陥ることがよくあります。(赤軍派、あるいは共産主義の活動を見てください!)
「小心者」であれ「過激派」であれ、その言い訳が何であっても、そしてその言い訳の選択を支える信じ込みが何であれ、その結果は全く同じです。
原因は何であっても、自己不信は、反感に至り、怒りに短期間滞在し、恨み憤懣の中に沈み込んでいきます。
更に、敵意の中に降りていきますが、こう言ったものは、失う恐れと深い悲しみ、罪の意識をマスクする為の仮面に過ぎないのです。
この「恐れや深い悲しみ、罪の意識は、内側でしか見つける事が出来ないものを、外から手に入れようとする事で、私たちのハートに取り付き、苦しめるのです。
さて、自分だけでこれを理解できるほど懸命な人は、ほとんどいないのです。
それで、残っているのは、冷たい、荒涼たる無関心しかありません。完全な泥沼です。
*だからこそ、アシスタント・トレーニングとして、「BUファスティング」と「朝活、六方拝」をアシスタントの必須トレーニングにしているのです。
立場を変えて様々な視点で自分自身を俯瞰し、問題が起きる時には、自分自身の内側を0化する事で解決していく在り方と、素直で正直な本音のコミュニケーションを取り続けていく事が求められるからです。
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